幸福アレルギー

大好きなアイドルのコンサートのチケットの発送通知が届いた。

また、遠距離恋愛中の彼氏のもとへと行ける飛行機のチケットも近々届く。

私はこの事実にかなり浮かれていて、「もしも同じ日に届いたらどうしよう!幸せすぎて死んでしまうのではないか」などと考えていた。

 

そこでふと、疑問に思った。

人はよく、「幸せすぎて死んでしまう」とか「嬉しすぎてこの後悪いことが起きるのではないか」とか「運を使い果たした」などという言い方をする。これは何故なのだろう、と。良いことがあったのだから素直に喜べばいいのに。

 

色々考えた結果、『他の誰かよりも幸せだということを他者に意識させない方が、現代社会は生きやすいのではないか』という結論に至った。

若い女の人が自分のことをBBAと自称してみたり、至って健康的な(ともすれば、痩せ型の)体型の人が自分のことをデブと自称してみたり。

もちろん自分が若いことは分かっているだろうし、太っていないことも分かっているのだろうけれど、敢えて自分を貶すことでプラマイゼロというか、トントンにしているのだろう、と。

 

だから何か良いことがあったことを報告する際も、「これで運使い果たしました(笑)」みたいな締め方をする。

『私はたまたま良いことがあったけれど、あなた方より幸せだとは思っていませんよ、わきまえていますよ』というポーズを取る。

そうやって誰かの嫉妬の対象となることを避けているのだろうな、と思った。

そして、誰かの嫉妬の対象となることを(意識的にも、無意識的にも)避けざるを得ない現状を、おぞましく感じた。

 

『幸せになるのが怖い』

『幸せすぎて怖い』

こういった気持ちはよく分かる。

でもその『怖い』の正体はなんなのか?と突き詰めていったら、もっと怖いものが見えてしまった。

幸せになってしまったら他者から嫉妬(更に、攻撃まで)されてしまうのではないかという恐怖感である。

(他者から嫉妬されることよりも、『自分なんかが』幸せになるなんて、という自己肯定感の低さから「幸せになるのが怖い」という人もいる。が、これはまた、別の話)

 

みんな、横並びでいることに安心していて、そこで誰かが突出しようとすると足を引っ張る。自分の中の嫉妬心なんか見て見ぬふりをして。

自分より幸せな人を見るのがつらくて、自分より不幸な人を見るとホッとする。当たり前かもしれないけれど、これが『当たり前』になっている現状は、やっぱり、どう考えてもおぞましい。

この記事のタイトルを『幸福アレルギー』にしたが、正確に言えば、みんな『他人の』『幸福アレルギー』なのかもしれない、と思った。

人生リセットボタン

人生をリセットしてしまいたいと考えたことはあるだろうか。
私はある。
というか、多々ある。

しかし人生をリセットするにあたって、当然だが人間関係もリセットされてしまうことになる。

人間関係さえもリセットしてまで人生をリセットしたいだろうか?
と自分に問うた時、答えは決まってノーになる。

ではそもそも何故人生をリセットしたいのだろう?
色々な理由があるとは思うが、大体私は「あの嫌だった出来事をなかったことにしたい」と感じた時に人生をリセットしたいとふと考えてしまう。

もし本当にリセット出来たとして、記憶を引き継がなければまた同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。
だからといって記憶を引き継げば、自分の頭の中にある無かったはずの出来事にずっと苦しめられることとなる。


結局、自分を苦しめているのは、自分だ。
嫌だった出来事はたった1回しか無かったはずなのに、自分でその嫌な記憶を反芻し、自分で自分を苦しめている。

それを止めたらいいのだが、これがなかなか難しい……。分かっていながらも、どうしても嫌な記憶というものは突然やってきてしまう……。

嫌な出来事を繰り返し思い出しさえしなければ、何千何万という人々が人生リセットボタンを押さずに済むのにな、と、今日はぼんやりと考えた。

「~しなければならない」の呪縛

人というのは矛盾を孕んでいるからこそ美しいと考えている。

誰かから見れば矛盾しているような主義主張を唱えているようでも、本人にとってはそれらはきちんと行儀よく手を繋いでいて、自分の中に違和感なく存在している。このことは実に興味深い。その歪さに良い意味でも悪い意味でも惹かれてしまうことはままある。

しかし私が冒頭に書いたことを主張するには、私自身には矛盾があってはならないような気がしている。(それもまた一種の矛盾なわけで、結局人間は矛盾から逃れることが出来ないのかもしれない)

何故かと問われれば、「なんとなく美しくないから」ということに尽きる。

矛盾をたくさん抱えた人間が、「人というのは矛盾を孕んでいるからこそ美しい」などとほざいても、ただの自己弁護で終わってしまうような気がするからだ。

つまり私はこの主張の透明度を高める為に、私に矛盾が無いようにしなければならない。

 

ところで私はこの「~しなければならない」、「~すべきだ」という言い回しを多用するのだが、これが結構自分の思想を縛り付けているように感じる。記事のタイトルで『呪縛』と題したがまさにそれで、この「~しなければならない」という言い回しをしていると、その他の考えがまるで見えてこない。もはやその他の考えが全て180度違ったものに感じさえする。

なんとかならないものかとは考えているのだが、この言い方・考え方をする癖がついてしまっているようで、暫くはどうにもなりそうにない…。ただ、しんどいが、まあ嫌いなしんどさではないことが救いである。

 

最後に、敢えてもう一度この言い回しを使うとするならば、「私はこのブログの更新頻度をもう少し高めなければならない」…。

傷つけ合うのは悲しい

万人に通ずる答えがないものごとを考えている時、どうしても難しい(平易ではない)言葉を使ってしまうのは仕方のないことだと思う。

 
自分で自分の考えを整理する為に言葉にしているのであって、誰かに説明しよう、理解してもらおうと思って言葉にしているわけではないから。
 
或いは『わかってほしくない』のかもしれない。
だから婉曲的な表現をするのかもしれない。
 
ただひとつ言えることは、誰かのそのような状態を『中二病』などと言うべきではない。
思想は言葉を生むが、言葉によって思想が殺されてしまうこともある。
 
中二病』などという言葉で見下してくる人間を、また『高二病』などと言って揶揄する。収集がつかない。終わらない。
 
ひとを見下したって誰も救われない。
愛をもって生きたい。
たとえこの世の全てが苦しみであったとしても。
 
私は人が人を見下している様子を見るのをとても辛く感じる。
人が負の感情に支配されているのを目の当たりにするのが辛い。
ネットにおいて特に顕著だが、皆カジュアルに人を傷つけすぎだと思う。恐ろしい。おぞましい。
 
私だって負の感情に支配されてしまうことはある。
だが、人間は矛盾を孕んでいて、不完全だからこそ美しいと思っている。言い聞かせている。
でもそれを言う私は精神面で不完全であってはならない。
矛盾を孕んでいて、不完全だからこそ美しいと言う人がその通りならば、自己弁護にしか聞こえないから。
まあ、それはそれで、自分の中に矛盾が生じてしまうのだが。
 
私はこの『~でなければならない』、『~べきである』という文言を多用してしまう癖があるのだが、これが割としんどくて、自分を縛り付けているような感覚さえある。
 
 
 
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これは数ヶ月前に下書きに保存していて何故か公開していなかった文章だが、本日公開することにした。
同じようなことを書きたいと思い、今日このブログにアクセスしたので、後ほどまた記事を更新する。

思索の寿命

思ったことを文章に残す際には、やっぱり思いついたらすぐ書かないといけない。或いは、思いつくままに。
 
思いは、言葉にした時点で急速に熱量を失うものだから。(こうやって他の人に見えるかたちで文字にせずに、脳内だけで完結させた時も。)
 
思いは、言葉になってから死ぬまでが早い。
思いが言葉になると、たちまち感情を消化(或いは、昇華)させる。そのスピードは、本当に、恐ろしく、早い。
 
それでも、言葉にしないと伝わらない。
 
今もこうやって、脳内に浮かんだことの輪郭を、必死に捉えようとしている。
私がなんとかそれらしい単語のしっぽを掴み、それらを組み合わせてちまちま文章を綴っても、私の頭の中にいたはずの、ぼやっとしたあれは、もう死んでしまっているのだ。
星の光が我々の目に届いた時には、既にその星は消滅しているらしい。
 
丁度、あんな感じだと、思った。